【偉業!】人類が初めて利用した金属 銅の歴史 奈良の大仏造立編

日本における青銅器文化の極みは奈良の大仏造立に象徴され、約1300年前に現在でも世界最大の鋳造物である大仏様を作った先人の偉業には、同じ鋳造業界に携わる者として感服するほかありません。

目次

世界最大の青銅鋳物

日本では、8世紀になると銅の生産が盛んになり、歴史に残る青銅器多く作られるようになりました。
その極みは奈良の大仏ではないでしょうか。
大仏は東大寺大仏殿の本尊、盧舎那仏(るしゃなぶつ)で743年に聖武天皇によって発願され、747年に鋳造開始、749年に竣工、752年に開眼供養されました。
大きさは高さ14.85メートル、重さが260トンの世界最大の青銅製鋳物です。

奈良の大仏

盧遮那仏

盧遮那(るしゃな)は、サンスクリット語バイロチャーナ(Vairocana)の音訳である毘盧遮那(びるしゃな)の略称で、「輝きわたる」の意です。
毘盧遮那仏は光明遍照の意であることから、光があまねく照らすごとく、全宇宙に遍満する仏身を意味します。
密教では大日如来(だいにちにょらい)といいます。

聖武天皇は河内国知識寺の毘盧遮那仏を拝していたく感動し、東大寺金堂に毘盧遮那仏を造立することを決意、発願するに至ったとされています。
大仏造立は国家的大事業として行われましたが、仏教に深く帰依した聖武天皇が仏法の加護のもとに国家安寧と民衆の幸せを願って発願したもので、国民の総意と協力が大きな力となって竣工しました。

原材料である銅、スズ、金、水銀が全国規模で好意的に集められ、東大寺要録によれば寄進者は42余万人もなり、実際に仏像製作に携わった作業者は延べ218万人だったとされ、発願から開眼供養まで約10年の歳月がかけられました。
当時の人口の40%もの人が大仏の造立の作業に従事していたということになります。

現代に置き換えて考えても人口の40%もの人々が関わる国家事業となると、とてつもない一大プロジェクトであったということが伺いしれます。

大仏の鋳造

大仏はどのようにして作られたのでしょうか? それには人智と当時の技術の粋が結集されたと思われます。各地から集められた原材料は次のとおりです。

材料重量
約500トン
すず約8.5トン
水銀約2.5トン
約440kg
約1200m
人夫約218万人

大仏の鋳造工程

  1. 基礎工事としての基壇づくり
  2. 仏像本体の土の像(マスターモデル)の製作
  3. 鋳造(ちゅうぞう)工程
    総重量250トンもの青銅を一気に鋳込むことができないので、仏像を輪切りした状態で全体を8段に分け、下段から順に鋳込む積層鋳造法(せきそうちゅうぞうほう)で製作されました。

    外型枠づくり
    仕上げ加工したマスターモデルの表面に鋳型土を厚く塗りつけ、乾燥後、はがして外型枠とします。

    中子削り
    マスターモデルの表面を一定の暑さだけ削り取り、中子(なかご)とします。 削った厚さ分が大仏完成時の鋳物の肉厚になります。

    外型枠の組み立て
    外型枠をマスターモデルより削った厚さだけ離して組み立てます。

    溶融青銅の鋳込み
    約1200度で溶解した青銅を流し込みます。

    このように上記の鋳造工程を8回繰り返して仏像本体を完成させます。 各段の接合部は前段で凝固した部分に次の段で溶けた青銅を鋳込んでも、溶着されないので、鋳がらくりと呼ばれる機械的接続方法によって接続しました。 各段の接続部に鋳堺線(いざかいせん)が認めらています。
  4. 鋳加(いくわえ)と鋳浚(いさらい)
    鋳造された大仏像の鋳造欠陥の補修と仕上げ加工を行います。
  5. めっき処理
    水銀と金の化合物であるアマルガムを鋳造仏像の表面に塗り、加熱することによって金を析出させる。

大仏のつくりかた NHK for School

https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005402297_00000

大仏の完成

このようにして、長い年月と莫大な費用、それと多くの労力によって、世界最大の青銅鋳物の仏像が完成しました。これだけの巨像を造立するには想像を絶する困難があったものと思われます。
作業中の事故や、鍍金の溶剤として用いられた水銀の中毒により多くの人命が失われたとも言われています。

大仏殿の建設

多くの困難のすえ完成した大仏ですが、まだ大仏像が完成しただけで、大仏殿の建造が残っています。
大仏像を作ってから、建物の建築にとりかかるなんてぶっ飛んだ方法を考えた先人達には驚かされますよね。 
天平勝宝4年(752年)に、大仏の鋳造が終了し、大仏開眼会(かいげんえ)が盛大に挙行されました。 そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことです。
だが、このような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けました。

大仏殿は、1180年の治承の兵火、1567年の永禄の兵火により2回焼失しています。 鎌倉時代は重源、江戸時代は公慶らの働きによって、その都度再建されてきました。
現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m。奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっている。『東大寺要録』の「大仏殿碑文」によると創建時の大仏殿の規模は、幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、高さ12丈6尺(約37m)、柱数84という。
現在でも世界最大級の木造建築である大仏殿ではあるが、創建時や鎌倉復興時の正面は現在よりも1.5倍近く巨大だったということに驚くばかりです。

京都にも大仏があった!?

奈良の大仏は現存する最大の青銅製仏像として、また世界最大の鋳物として有名ですが、実はこれよりもさらに大きな青銅製大仏が造立された歴史があります。
豊臣秀吉は1586年(天正14年)京都東山区に方広寺を建立し、東大寺にならって木造の大仏(大きさ六丈三尺)を造立しましたが後に焼失しました。

豊臣秀吉なき後、豊臣秀頼は徳川家康から奈良の大仏よりも大きな青銅製大仏(六丈三尺、約19メートル)の造立を命じられ工事に着手しましたが、鋳造工程で火災をおこし、目的を果たすことが出来ませんでした。
秀頼は再度、大仏造立にとりかかり1612年(慶長17年)に完成することが出来ました。 しかし、造立から50年後の1662年(寛文2年)地震によって崩壊しました。 大仏は現存せず、大仏殿跡地だけが残っています。

家康が秀頼に青銅製大仏の造立を命じた理由は多大の銅を調達させることによって、豊臣家の財力を弱めることにあったといわれています。 また、秀頼が鋳造した方広寺の青銅製大梵鐘に刻まれた銘文「国家安康」「君臣豊楽」が家康の疑いを受け、大阪冬の陣の口実になりました。

これらの歴史事情は家康の天下統一に絡む政争に「青銅」が深く関わっていることを意味しており、当時における「銅の力」が思い知らされます。

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