【そうだったのか!】人類が初めて利用した金属 銅の歴史 日本史編

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日本における銅の歴史は世界に比べれば浅く、約2300年程度といわれています。 青銅器文化が華ひらいた時代があり、世界一の銅産出国になったこともありました。

目次

日本における青銅器

日本における銅の歴史は世界に比べればかなり浅く、エジプト、西アジア及び中国においては青銅器の道具や武器が使用された、いわゆる青銅器時代がありましたが、日本においては存在しません。

日本における青銅器の最古の例は、山形県三崎山遺跡から発見された青銅刀子(せいどうとうす)で、縄文時代後期晩年のものとされています。 年代がより確実なものは、弥生時代前期初頭に朝鮮半島から流入したと考えられている、福岡県今川遺跡から出土した銅鏃(どうぞく)や銅のみです。 日本における青銅器の歴史は弥生時代に中国、朝鮮からもたらされたことにより始まり、それらの青銅器を再溶解して、銅鏡(どうきょう)、銅鐸(どうたく)、銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)などがつくられました。

銅および青銅の利用は時代と共に拡大し、特に538年に仏教が伝来してからは仏像や梵鐘などが鋳造され、銅板が法隆寺の夢殿の屋根に初めて使用されました。

銅の大鉱脈の発見

日本で初めて銅鉱石が発掘されたのは698年(文武2年)のことで、周坊と因幡の国から産出した銅鉱石が朝廷に献上されています。 しかし、日本において一大転機が訪れたのは奈良時代708年の元明天皇の時代です。

武蔵国秩父郡で銅の大鉱脈が発見され、日本で初めて自前の銅を手にすることが出来ました。 銅が朝廷に献上されたことによって年号が慶雲から和銅に改元され、わが国で製造された金属貨幣である和同開珎(わどうかいちん)が発行されました。
「和同開珎」は唐の「開元通宝」を模し、「天地和同」、「万物和同」などのめでたい言葉をもとに誕生したものであり、かつては「日本最古の貨幣」とせれてきました。 しかし現在では飛鳥池遺跡などから出土した7世紀後半の富本銭(ふほんせん)が最古と考えられています。

これから後に、銅と青銅は仏教の布教と共に美術工芸品としても価値の高い仏像や仏具の作成に利用され、さらには国威の象徴としての大仏までもが鋳造されるようになりました。

奈良の大仏

世界一だった産出国としての日本

江戸時代になると、多くの銅鉱山が発見され、中でも1600年代に発見された栃木県の足尾銅山、愛媛県の別子銅山、秋田県の尾去沢銅山が隆盛を極め、1700年代には銅の生産高が1年に1000万斤(6000トン)にもなり、今の日本では考えられませんが、当時、世界一の銅産出国となり、約500万斤もの銅が長崎から輸出されました。

明治時代になると、外国からの新しい技術が導入され、鉱山の採掘法や精錬技法が飛躍的に進歩し、銅の利用も青銅品から導電材料へと移行し、電灯や電信のための電線という、新しい分野で広く活用されるようになりました。
長崎の出島はオランダ、中国の船で賑わい、わが国の銅は遠くヨーロッパまで輸出されました。 当時、銅の生産に従事していた人々、銅鉱山、精錬所、産地から長崎まで運ぶ船問屋なでで働いていいた人の総数は数十万人ともいわれています。
当時の人口が2500万人の時代ですから、銅製品が一大産業であったことがわかります。

銅の産地について

銅鉱山歴史の始まり

奈良時代に和銅山で大規模な銅鉱脈が発見された708年が、日本における銅山開発の歴史のはじまりです。 和銅山は現在の埼玉県秩父市黒谷にあり、その麓で自然銅鉱石の大結晶が見つかったことが、山頂から渓谷にかかる2筋の自然銅からなる大鉱脈発見の端緒になりました。
この銅鉱石は純度が90%の良質の自然銅でした。 この発見は中央の大和朝廷の元明天皇んび上奏され、さらい精錬溶解した銅塊が献上されました。 日本ではそれまでの銅は大陸からの輸入に頼っていました。
日本でとれた純銅であることから和銅、熟銅(にぎあかね)と呼ぶことにしました。 これを記念して708年の年号慶雲五年を和銅元年に改め、大慶賀祝典が行われました。

銅鉱山の開拓

和銅山で銅鉱脈が発見されたことが契機となって、国内の銅鉱山開拓が本格化し各地で鉱脈を見つける試みがなされました。
当時、行われていた銅山の発見方法は、現在のようなボーリング磁気探査などの科学的方法と異なり、「目視」による方法でした。 渓谷や山野を探索して散財する銅鉱石を見つけたり、あるいは闇夜に光る岩山から鉱脈を発見する方法で、いずれも露頭(ろとう)を見つけることが基本になっていました。 当時、銅鉱石とされていたのは自然銅であり、その他に赤色の赤銅鉱(しゃくどうこう)、緑色の孔雀石(くじゃくせき)、藍色の藍銅鉱(らんどうこう)などの還元が容易な酸化銅があり、目につきやすい鉱石でした。
また変わった方法としては、銅産地に特有な植物とされる花筏(はないかだ)を目印にし、それが自生する近辺には銅鉱床があるとする方法でした。 同様の方法として、中国、台湾では銅草花(どうそうか)が自生する場所を銅鉱床の目印としています。

花筏(はないかだ)

御用三銅山

8世紀には各地で銅鉱山が発見され、銅の文化が大きく発展しましたが、日本の銅の生産が飛躍的に高まったのは17世紀になってからのことです。 近世の御用三銅山とよばれていた阿仁(あに)鉱山、別子(べっし)鉱山、尾去沢(おさりざわ)鉱山がおおいに栄えました。 しかし、近年になってこれらの鉱山は硫化銅の精錬に伴う排煙(二酸化硫黄、亜硫酸ガス)と廃液の公害問題を引き起こし、大きな社会問題となり休山や閉山になりました。

日本における銅の歴史年表

西暦銅に関わる発見・発明・出来事
B.C.300〜中国大陸から青銅器がもたらされ、これを溶解・鋳造して銅鏡、銅鐸、銅剣などがつくられた。
650東大寺夢殿が建立され、屋根に銅板が使用された。
701大宝律令が制定され、役所ごとに銅印鑑が使用された。
708和銅山(埼玉県秩父)で銅の大鉱脈が発見された。
752奈良(東大寺)の大仏 青銅製が造立された。
1252鎌倉(高徳院)の大仏 青銅製が造立された。
1610足尾銅山(栃木県)が発見された。
1690別子銅山(愛媛県)が発見された。
1700頃日本の銅産出量が世界一(6000トン)となり、輸出されるようになった。
1871大阪造幣局が設立された。貨幣の製造が始まった。
1890足尾銅山に水力発電が建設され、銅の電解精錬が始められた。 
ベッセマー転炉が導入され、銅生産の近代化が進められた。
19世紀末足尾銅山、別子銅山で鉱毒事件が起きた。
1964日本とアメリカを結ぶ太平洋横断海底ケーブルが敷設された。
1984両国国技館が完成し、屋根板として120トンの銅が使用された。
1984「緑青は無害」との研究結果が厚生省(当時)と東京大学の研究班から発表された。 
核融合装置や超電導体などに対する銅の新しい役割が当てられるようになった。
2000携帯電話、デジタルカメラが普及し、銅の役割がさらに高まった。
2020〜ハイブリット自動車、電機自動車のモーターに使われる銅が重要となる。

次回は、世界最大の青銅鋳物 奈良の大仏について書いていきたいと思います。

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